Green Culture in Matsuyama 庚申庵倶楽部

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■ 栗田樗堂 ■

 樗堂は、酒造業・後藤昌信の三男として生まれ、後に同じ酒造業の栗田家の養子となり、家業をもりたてます。
 長期間にわたって町方大年寄役を勤めるなど、働き者で、人望の厚い人物でした。
 小林一茶とも交友があり、一茶が生涯において二度松山を訪ねた際には、彼を温かく迎えました。
 また、芭蕉俳諧の精神を学んだ樗堂は、52歳の時に、残りの人生を風流三昧に暮らそうと思い、「庚申庵」を建て、ここで数年間を過ごしました。
樗堂肖像
1749年
(寛延2年)
◆『豊前屋』後藤昌信の三男として誕生
 通称は貞蔵。
 松山城下・北松前町で酒造業『豊前(ぶぜん)屋』を営む後藤家は、代々、松前城から松山城を築いて移った加藤嘉明に仕える士族でしたが、松山に移り、松前から移住した人々が住む松前町に暮らすようになってからは商人となりました。
 代々町役人の頭、大年寄役を務める名家で、近松門左衛門とも交流を持つなど、文化人の家系でした。
1765年
(明和2年)
◆『廉屋』栗田家の養子となる
 南松前町の酒造業『廉(かど)屋』栗田家の、若くして亡くなった六代目当主・政賀の妻とら女と結婚して、栗田家の七代目当主・栗田與三左衛門を襲名し、跡を継ぎます。[諱(いみな)・政範]
 また、この頃より本格的に俳諧を学び始めました。
 栗田家も、後藤家と同様、元々は加藤家に仕える士族であった商人の家です。文学の素養のある家柄で、養父・政恒は、天山という俳号の俳人でもありました。また、妻とら女も女流俳人で、俳号を羅蝶といいました。
1771年
(明和8年)
◆松山藩大年寄役見習となる
1773年
(安永2年)
◆大年寄役に昇格する
 以後、引退までの30年近くにわたって、松山藩の様々な要職を務め、功績を上げ、藩からたびたび褒美を受けています。
1786年
(天明6年)
◆全国諸芸の達人を示した書『名人異類艦』に
 「俳句上々、廉屋与三左衛門」と載る


◆俳友・麦士と共に二畳庵で連句を巻く
 ここでいう「二畳庵」とは、樗堂の養父・政恒(天山)が創設した庵を樗堂が受け継いだもので、現在の阿沼美神社の境内に建っていたといわれています。後に樗堂が御手洗島に建てた二畳庵とは異なります。
1787年
(天明7年)
◆京都に上り、加藤暁台に学ぶ

◆樗堂自身の紀行文と暁台らとの四吟歌仙からなる
 『つまじるし』を編集

 松山を出て、瀬戸内・紀伊・大和・京都を旅したこの時の紀行文『つまじるし』は、師・暁台に激賞され『暁台七部集』に入り、一躍名前を全国に知られることとなりました(当時の俳号は「蘭芝」)。
1789年
(寛政元年)
◆妻・とら女(羅蝶) 死去
1791年
(寛政3年)
◆大年寄役を退役して大年寄格となる
1795年
(寛政7年)
◆小林一茶が二畳庵を訪問
 一茶は寛政4年3月、師・竹阿の遺文集『其日ぐさ』を携えて、関西・四国・九州を遍歴。乞食の旅をしながら俳諧の修行をする中、松山へは、十六日桜を見るためもあって樗堂を訪ねました。
 樗堂は一茶を温かくもてなし、一茶が旅立とうとするのを引きとめながら熱心に俳諧の指導をしました。20日間ほどの滞在で、二人の両吟歌仙『鶯の巻』はこの時に巻かれました。
 樗堂と一茶はお互いの人柄に惹かれるようになり、樗堂の作風が、一茶の作風に大きく影響したともいわれます。
1796年
(寛政8年)
◆大年寄役に帰任

◆小林一茶が2度目の訪問
 この年の秋、再度樗堂を訪ねた一茶は、翌年の春までという長期の滞在をし、その間に両吟歌仙六巻を巻きました。
 この後二人が会うことはありませんでしたが、樗堂の死まで手紙の遣り取りは絶えることなく続き、交友を深めました。
1798年
(寛政10年)
◆俳文の傑作『月夜さうし』成る
1800年
(寛政12年)
◆「庚申庵」創建
1802年
(享和2年)
◆大年寄役を退く
 かねてより仕事から早く身を引いて俳諧に専念したく思っていた樗堂は、病気を理由に大年寄役を退き、隠居名・専助を名乗り、出家までして、庚申庵を中心に風雅に生き、俳諧活動に専念しようとします。
1805年
(文化2年)
◆『庚申庵記』成る
 庚申庵の詳細な様子とともに、“市中の隠”の難しさや、優れた俳人であるが故の、この地では理想とする(芭蕉のような)風雅な生活を送れないという苦悩をつづった俳文『庚申庵記』を書き上げます。
 この年、樗堂の跡を継いでいた栗田家八代目当主・政篤が病死したため、藩は、すでに引退していた樗堂の復帰を期待して、栗田家に「代々大年寄上」という役職を仰せつけます。しかし、樗堂はそれを受けず、政篤の子である政和が、わずか12歳で九代目当主となました。
1807年
(文化4年)
◆この頃、御手洗島に移住
 庚申庵での生活に挫折を感じていた樗堂は、ついに意を決して、公職を逃れるために松山を去り、瀬戸内海の安芸国・御手洗島(広島県・大崎下島)に「二畳庵」を建てて永住してしまいます。
 瀬戸内の良港であった御手洗において、松山をはじめ全国の俳友と交遊しました。
1813年
(文化10年)
◆『俳諧新十家発句集』に選ばれる
1814年
(文化11年)
◆『万家人名録』第五編のあとがきを書く

◆旧暦8月21日 死去
 小林一茶に「生きているとは申すばかり」の老境を率直に書き送っているこの年の7月、樗堂は病の床に臥し、8月21日、俳友門弟たちに惜しまれながら逝去しました。
 樗堂は、松山萱町・得法寺にある先祖の納骨堂に葬られました。また、御手洗・満州寺にも「樗堂墓」と記された石碑が建てられています。
1815年
(文化12年)
◆芭蕉と樗堂の二句一体の句碑
 「さくら塚」が建てられた


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